作家・籘真千歳のブログ

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読書メーターへのコメント
読書メーターの自分の記事へのコメント(補足)になります。


実は、私も高校時代は数学が大の苦手でした。赤点続きで先生の呼び出しを喰らうこともしばしばで、マンガによく出てくるような「落第寸前で先生にいつも怒られているような」駄目な生徒が私です。
ですが、では学校で数学が不要なのか、という問題については強く「否」と、できなくて苦労した私は思います。
そもそも、すべての若年者に平等な教育を施す理念とその必要性とは、指導者や扇動者、政治的強者や経済的強者の行いを、誰もが自分の知識と知恵ででチェックできるようにするためであったはず。
近いところではAIJの資金消滅がそうですが、「わからないから任せてた」ということを国民全体で繰り返していれば、現在の民主主義成立以前の、一部の識者や資産家、貴族、報道者、軍人による一方的な指導や扇動の善し悪しを誰も知ることができず、言われるままに従うだけの時代に逆戻りしてしまうでしょう。
実際にAIJの高利回りの正体に誰もが気づくべきだった、とは私も思いません。ですが、「誰だって知ろうと思って勉強すれば、なにかおかしいと気づく機会はあった」という事実を持って、責任の所在を曖昧にしないこと、また次の被害を未然に防ぐことに向けて、汚職もあり得る官僚や政府任せにせず自分で考えることはできましょう。
振り込め詐欺にあわないよう、「なにがおかしいのか」知るのと同じことです。経済のことになると、「なにがおかしい」のかが複雑に絡み合って、数学や経済学の知識と経験なしにわかりづらくなっているだけで。(わざとわからないようにして金を回しているのが今の経済界の悪癖だとは思いますが)
そういった「一人一人が世の中の出来事を自分で確認するために、一定の平等な知識」が必要なのだと思います。文字が読めないのでは本が読めず、本が読めなければ誰かが言ってくれたことを信じるしか術はなく、嘘を言われても気づけない。
AIJもそうだし、最近の複雑な構造の家電もそうです。作った会社を信じるのはよしとして、何か問題があったのなら自分で「何が問題なのか」知らなくてはいけません。そのためには、電気の極性がプラスとマイナスの二つある、ぐらいは知っていなければ、どんなに説明されても理解できないでしょう。理解できなければ、テレビや誰かの言った「あそこの家電は殺人兵器だ!」という言葉を信じてしまいます。(ソニータイマーも同じですね)
つまり、数学他の実社会で使い道がすぐに見当たらない学問は、仮に本当に生涯使わないのだとしても、不要と言うことにはなりません。健康保険やガン保険、自動車保険と同じなのです。一生使わずにすむならそれにこしたことはなし。しかし、使わなそうだからと言って誰も保険に入らなくなったら、世の中はごく一部の事故や病気に戦々恐々とするこまった時代になりましょう。
数学は、直に使わない職業の方にとっても「保険」になっている、そう思います。
使わなそうだから、といって誰もやらなくなったら、その知識を持つごく一部の人の言いなりになるしか有りません。十年や五十年はそれでもたいした問題は起きないかも知れない。でも、子や孫の世代はどうか? 世の中がめちゃくちゃになっていくのを、俺は学がなかったから知らなかったんだ、で子や孫に言い訳ができるとは私は思えません。
だから、全員ができるようになる必要はなくとも、皆で平等に習う機会を持っておくことは欠かせないでしょう。その中から、できる人が幾人か出てくれば、その人と相談して複雑なことも理解できるようになれるはずです。

私の学生当時の「数学は役に立たない」という言葉の流行は、共産主義に対する憧憬に端を発しているような気がします。「金も学もコネも足りない俺たちこそ正義」と毛沢東語録を掲げて行進していた人たちの言葉から、自分の人生を肯定するのに都合のいい言葉を抜き出し、学歴が自分より優れている誰かに対するコンプレックスを穴埋めするのに都合がよかった、というあたりが、当時の世相を顧みるにその正体であったように思います。つまり、自分の欠点を慰めてくれる言葉ならなんでもよかったわけで、特に数学をあげつらったのは、数学が実社会の中で職業に特に結びつきづらく、高学歴の象徴として、高学歴者、学者に「社会で役立たず」「俺より無能」というレッテルを貼り付けるのにいい方便だったのかもしれません。
(ですから、「数学なんて~」と言っていた大人がみんなそう、という話ではありません。もっと学生時代に勉強したかったな、と誠実に思う人の心の隙間に巧みに入り込んで、悪質にこの言葉を流行させた人たちがいた、ということです)

そういった自分を慰めるための言葉を安易に若者に押しつけようとした当時の一部の大人たちに対して、私も複雑に思うところはありますが、きっと今の私も含めて今の大人が身を正すべきところは少なくないと感じます。

数学のできる、できないは、人の価値とは連動しません。できる人が、この社会に一定数必要なだけ、でありましょう。
ならば、できる人を見下すのでもなく、できない人が恥じ入ることなく、それぞれの職業と同じように、貴賤なく尊重すべきだと思います。
なので、特定の学問が「必要ない」と断じるのは間違いだと、私は思うのです。

追記:
個人的には、原子力についても必修科目に含めるべきだと思っています。誰もが小学校の図書館にあった「はだしのゲン」ばかり根拠にして、放射能が恐い恐いと叫ぶだけでは、脱原発の話し合いはいつまでもかみ合わないし、必要以上に恐く思って人生を狂わせる人も出てきましょう。
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